「ああ、よく来ましたねえ。レオ」  白を貴重とした清潔なラボ。  壁面から天井に至るまで、無数のモニタが設置されたこの広大な研究室にいるのは、私を除くと目の前の少女一人だけでした。  年の頃は十二か、十三歳程度。微笑をたたえ、白衣を着込んだ、白人系の女性。  もちろん、ボストンの生体科学研究所最深部に住まうこの人物が、ただの少女であるわけもありません。  彼女の名前は、ミス・アリエス。  開発コード、DH-01……私たちDHシリーズの中でも一番最初に開発された、統合管理用個体です。  私は今日、とある相談をしに彼女の下へ立ち寄ったのでした。 「日本からはさぞ遠かったでしょう。お疲れ様。そこにおかけなさい」 「そうでもありません。太平洋は人類軍の勢力圏ですから、移動に要した時間は7時間と32分です」 「物理的な距離ではないわ。心の問題よ」 「あなたの言い回しは複雑です。DH-11のようです」  彼女の人格ベースは、2034年に開発された独立思考型生体コンピュータ『アリエス』。  魔界からの侵略戦争という未曾有の危機を事前に警告したばかりではなく、大戦が始まってからもアメリカ軍部に対し様々な提案をしてきたことでその功績と『人格』が認められ、DHシリーズの統括というもっとも重要な部門に割り当てられることとなった、DHシリーズの最古参です。  生体コンピュータとして培ってきた経験、知識。それら全てを人格データと一緒に、DHシリーズ固有の有機ボディへ移植している。ある意味、最も特殊な個体と言えるでしょう。  我々DHシリーズへの反応は人によって様々ですが、彼女はどの個体にも平等な対応をします。  つまり、こういった……『おばあちゃん』のような対応を。 「いまお茶を淹れるから、待っていてね。おいしいホウジチャがあるのよ。それに、ほら、日本から届いたの。ザラメ糖がまぶされたおせんべい。甘いのは好き?」 「ミネラルウォーターをお願いします。お煎餅は不要です」 「相変わらずねえレオ。他の子とは上手くやれている? 特にほら、アクエリアスやタウラス。あの子たちは感情豊かだから、あなたと衝突していないか、ちょっと心配だわ」 「問題はありません。 ……おそらく」 「それで、今日はどうしたの? あなたの次の任務はグリーンランドよね。パイシーズと一緒の」 「はい。ローガン国際空港で給油と整備があるので、その合間にラボへ立ち寄った次第です」 「嬉しいわ。リーブラなんか、私のところに全く顔を見せてくれないんだもの。すぐ近くなのに……立ち寄った理由は? ちょっと休憩しにきたのなら、おいしいクッキーを出しましょうか?」 「クッキーは結構です。あなたに質問があるのです、ミス・アリエス」 「なにかしら」 「この戦争の勝利条件は何なのでしょうか」 「現在、地上の勢力図は五分と五分。一時期はこのボストンすら占領されかかったことを考えれば驚異的な巻き返しではありますが、未だ戦争に終わりは見えず、各地で魔族と人間の戦いは絶えず、魔王ベリアルは地上から退く様子を見せません。  我々人類は、彼らを滅ぼせば勝利を得られるのでしょうか。それとも、いずれは和平などの平和的解決を模索するべきなのでしょうか」 「まあ」  ミス・アリエスがこういう表情を見せるのははじめてでした。  彼女は心底驚いたように口に両手を当て――何か言おうと口をぱくぱくさせ、それから再び両手で口を抑えました。 「ごめんなさい。私は……ええ、驚いているの。まさかあなたがそういう事を言い出すなんて」 「申し訳ありません。不適切な発言でした」 「喜んでいるのよ」  ミス・アリエスは言葉通り、心底嬉しそうに笑うと、ほうじ茶で喉を潤しました。 「だって、DHシリーズのコア・プログラムは"人類を守れ"で、最優先される手段は"人類の敵を倒せ"でしょう?  なのに、あなたは和平の可能性を提案した。基礎プログラムの軛からあなたは脱しようとしている……それは、"レオ"という人格の芽生えだわ」 「それは、喜ばしい事なのでしょうか」 「喜ばしいことよ」  ほっとしたように微笑むミス・アリエスをよそに、私の心中は懸念で満ちていました。  DHシリーズはあらゆる近代兵器を凌駕する驚異的な力を持っています。最弱個体である私、DH-06すら、その例外ではない。  大陸間の超長距離砲撃を得意とする"09-サジタリウス"。  あるいは、ほぼ単騎でカナダ方面の防衛に当たっている"07-リーブラ"。  万が一、彼らが自由意志のもとで人類軍から離反すれば、それは間違いなく人類への脅威に繋がるでしょう。  そんな超兵器に自由意志が芽生えるのは、危険ではないのだろうか。統括個体たるミス・アリエスが、それを喜んで良いのだろうか。  私はそう思いましたが、口にはしませんでした。本題から逸れる上、ミス・アリエスはこの手の話になると曖昧な形で話を濁すからです。 「それで、本題ね。勝利条件とは何か――だったかしら」 「はい」  ミス・アリエスは湯呑みをテーブルへ置き、両手を胸の前で組みました。これは、彼女が真面目に私達のカウンセリングを行う時の姿勢です。  彼女はDHシリーズのメンテナンスを担当する。それは有機ボディの異常チェックだけではなく、こうした精神面《メンタル》ケアも彼女の仕事です。いつも通りの口調で、彼女がカウンセリングをはじめました。 「"弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ"――という格言を知っていて?」 「サティヤーグラハの提唱者、マハトマ・ガンジーですね」 「永世中立国のスイスが、軍事力を保有している理由は?」 「中立国だからです。中立を貫くには、まず自分自身を守らねばならない。  軍事力をもってスイスに干渉してくる国に対抗するには同等の力が必要だと、そう判断したのだと考えます」 「平和的に解決したい。そう思う人にこそ、強さが必要ということよね。物理的にも精神的にも」  はあ、と物憂げにため息をついたミス・アリエスが壁のモニタに目をやりました。  そこには、青と赤で色分けされた世界地図。私の生まれ故郷、日本は本州を二分するように青と赤で塗り分けられていて、アメリカ大陸は塗りかけのペンキのようにあちこちに赤い染みができている。  言うまでもなく、青は我々人類軍の勢力圏。赤は魔族に占領された地域です。  数年前。《大霊穴》、あるいは《門《ゲート》》と呼ばれる魔界へのポータルが各地に開き、魔界からの侵攻が始まり、世界は大混乱に陥りました。  人類同士の戦争とはまるで勝手が違う、悪魔――魔族たちとの戦い。不利を強いられ、徐々に劣勢になっていく人類軍……。  一部の(稀有な)魔族の協力によって我々DHシリーズが作られ、そこからは勢力の巻き返しを図っていますが、それでもまだ予断を許さない状況と言えるでしょう。 「じゃあ、魔界の人たちと一進一退、それどころかつい最近まで押され気味だった我々が、いま"平和的に解決をしたい"と言って、彼らは聞いてくれるのかしら」 「不可能です。そんな交渉が通じる相手ならば、最初から大規模侵略戦争など仕掛けてはこないでしょう。  彼らは暴力と混沌をもって、この地上すべてを植民地化するつもりでいます。彼らが勝利した時に人類の居場所が地上にある可能性は低いでしょう」 「そこまでわかっているのに、貴方は何故、和平の道を模索しようと思ったの?」 「それは……」  私がミス・アリエスにこんな質問をしているのは、ひとえに東京で出会ったインプ――エイブラッドの影響でした。  魔界の住人の多くは極めて好戦的で、暴力を好み、交渉の余地がない。そんな中で、彼のような"話せる"魔族がいたことは、私に少なからずショックを与えていたのです。 「……東京で、とある魔族と、インプと話しました。彼は悪魔でありながら……色々な話をしてくれました。色々な話を」 「分かり合えるかもしれない。そう思ったの?」 「可能性は低いと思いますが、そうです。  過去に人類が繰り広げてきた戦争を見ても、『滅ぼすか滅ぼされるか』までいった例は極めて少ないでしょう。ならば、今回の戦争でも、敵の全滅が最優先事項にはならないと思ったのです」 「和平を望むとして、まず必要なのは力を示す事よ。我々人間は魔族たちと同等かそれ以上の持っているということを、はっきりと示す。  その上で、その力は彼らを滅ぼすためではなく、対話と和平のために使うとはっきり誇示する。そこではじめて平和的な解決の道が見えてくると思うわ」 「暫くの間は、戦って殺すしかない。そういうことでしょうか」 「必ずしも暴力に訴える必要はないの。交渉できるなら交渉すればいいし、財力で片付くならばそっちでもいいわね。  でも、相手が暴力主義者で、戦うことでしか分かり合えないとしたら……」 「分かり合う為に、戦わないといけない」 「そういうことね。悲しいけれど」 「いいかしらレオ。 「魔界、魔族、魔術。様々な新要素があるから混乱するけれど、今回の戦争は結局のところ、資源《リソース》を奪い合うための、ありふれた戦争よ。  石油資源や鉱物資源の奪い合い……それが地球、あるいは人間界の奪い合いというスケールに変わっただけ。国家と国家のぶつかり合いが、世界と世界のぶつかり合いに変わっただけ。  だから、解決についても過去の戦争から学ぶことは多いと思うの」 「和平はあり得ると思うわ。 「過去の戦争を振り返るといいわ。第二次大戦の戦勝国が、敗戦国の人間を一人残らず皆殺しにした事例はあって?」 「ありません。アメリカと日本の場合、降伏した日本にアメリカ軍が上陸。暫くのあいだ彼らが統治を行い……それなりには平和的だったという記録はあります」 「そうよね」 「和平があり得ると?」 「だといいわねえ。そうすれば、人間側も魔族側も死者が少なくて済むもの」 「 「冷戦期の事は知っていて?」 「もちろんです。第二次大戦後、1947年から1991年頃まで、資本主義社会と共産主義社会――西側と東側で起こった対立の事です」 「では、その頃は核戦争の恐怖が身近にあったことも?」 「もちろんです」 「ここしばらく、人類同士の大規模な戦争はめったに起きていなかったわ。それは確かに、2000年代に入ってからもアフガニスタンやイラクといった戦争はあったけれど、第二次大戦のように世界中が戦争に巻き込まれる事はなかった。多くの人々が平和を望み、多くの人々がそれを維持するように努力したからこそ、これまでの平和があったの」 「